2025/10/22

「サスティナブル」や「リユース」という言葉があちこちで聞かれるようになりました。
けれどそれは、もともと"新しい考え方”でも、誰かが掲げるスローガンでもなく、ずっと昔から、暮らしの中に静かに根づいていた感覚であり、私たちがもともと持っているものです。
たとえば、昔アメリカで見た瓶のリユース文化。グロッサリーやジューススタンド、コーヒーショップなどで、ミルクやソーダの瓶を返却すると、少しだけお金が戻ってくる時代がありました。洗浄された瓶はまた新しい中身を詰められて、店の棚に並び、誰かの手に渡っていく。多くの場所ではデポジット制度という仕組みだったけれど、当時の人たちはそんな言葉さえ意識していなかったかのように、それはごく自然な、日常の流れの一部でした。

多くのお店が提供するカップやボトルはリサイクルできるガラス製でした。キッチンの片隅では瓶を洗う音がして、ガラス越しに太陽の光が透ける午後、それがまた次の誰かの手に渡る。そんな循環が、生活という風景の中に当たり前のように存在していました。
時代が進むにつれて、ものは軽く、安く、早く手に入るようになり、利便性は増したけれど、“ひとつのものを長く使う”という感覚は少しずつ薄れていったように思います。
そして今、そんな当たり前の日々が戻りつつあることも同時に感じています。

壊れたら直すよりも、新しいものを買ったほうが良いこともあります。時にはそれが私たちの心高揚させ、新しい文化やアイディアを生み出すからです。最新のデバイス、ピカピカの新品のほうが気持ちいいこともあるし、それもとても素晴らしいことです。
けれど一方で、私たちの中には確かに「長く使いたい」「また誰かに使ってほしい」という気持ちもあるのだと思います。
その小さな願いが、いま“サスティナブル”や“リユース”という言葉やセンスを通して、再び形を取り戻しているのかもしれません。
楚々という場所にいると、そうした“ものの再生”を、静かなかたちで感じることがあります。
たとえば、季節ごとに少しずつ入れ替わる器や什器。古道具屋で見つけた棚が、手を加えられて新しい表情を見せたり、どこかの家で長いあいだ使われていた木のテーブルが、いまはカウンターとして、また人の手の温度を受け取っていたりします。
それらは、特別に「リユースしています」と掲げられているわけではありません。けれど、そこにある空気には、“ものを丁寧に扱う人の気配”が自然と漂っているのです。

楚々が大切にしているのは、「再利用」という発想よりも、“もう一度、ものに光をあてる”という感覚です。
サスティナブルという言葉は、どこか宣言的に響くことがあり、時には重たさを感じることもあるかもしれません。
けれど、暮らしの中に取り戻したいのは、もっとさりげない態度であり、流れです。
たとえば、誰かにとって必要のないものを自然に受け継ぐ、買い替えのタイミングを少しだけ延ばすこと。ひとつのカップを飽きるまでではなく、特別になるまで使い続けることかもしれません。

海外の店先にある古い瓶は、どれも少し歪んでいて、厚みも透明度も違っていたし、形もバラバラだったのが印象的でした。完璧ではないものに宿る安心感。それは現代の均質な製品にはない味わいだと思います。
楚々で見かける器や道具も、そうした“ゆらぎ”を大切にしています。釉薬のムラ、木の傷、鉄のサビ。それらは欠点ではなく、時間がつくり出したデザインの一部になって、より美しさを増すのです。
ものが人に馴染む瞬間は、いつも少しの“いびつさ”や“偶然”の中にあるのかもしれません。

リユースというのは、「再び使う」という行為そのものよりも、「もう一度、向き合う」ということなのだと思います。
壊れた椅子を直すとき、そこには修理の技術だけでなく、“もう少し一緒にいたい”という気持ちがあったり、記憶や時間が作る美しさもあります。
また、新しいものを取り入れることが良い時だってあります。
「これ、まだ使えるかな」という好奇心だったり、新しい気持ちで始める日常だったり、色々な風景があってこその“向き合う時間”なのだと思います。
そうした、さまざまな感情の粒が積み重なって、ひとつの“循環の文化”が生まれていくのだと思います。

「リユースする」というよりも、“誰かの日常がもつ美しさ”を見つめているという言葉の方がなんとなくしっくりきます。
自分の感覚や経験が、ものに新しい輝きを与える。
それはデザインでもマーケティングでもなく、生活の延長線にある“発見”の連続です。
朝の光でガラスの色が変わる瞬間、珈琲を注ぐたびに深くなるカップの艶。
それを「いいな」と感じる心の動きこそ、サスティナブルの原点に近いと思うからです。
環境や時代が変わっても、人の中にある“感覚”はそんなに変わらないのかもしれません。
古い瓶に再び光が当たるように、忘れていた感覚がまた手の中に戻ってくる。
「もう一度使う」という行為は、“未来のため”という以上に、“いまを丁寧に生きるため”の選択ともいえます。
楚々のまわりで起きていることは、そんな小さな再生の積み重ねなのかもしれません。
派手さはなくても、そこに流れているのは、確かな“生活のリズム”と“感性の呼吸”。
瓶がもう一度光を受け取るように、日常の中で、ものも人も、また静かに輝きを取り戻していく姿を日々眺めています。

